The Authority Match
ひざの痛みは“休息のサイン”。金メダリスト高橋尚子の選手生命をつないだ「身体との対話」

インタビュイー:元マラソン選手 高橋尚子さん
監修者:慶應義塾大学整形外科 専任講師 松村昇医師
「膝関節の痛み解消ナビ」がお届けする『The Authority Match』。本シリーズは、ケガやリハビリを乗り越えた経験を持つ著名なアスリートと整形外科医の対談を通じ、関節疾患との向き合い方や最新治療の可能性を紐解くコンテンツです。
第1回のゲストは、シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子さん。現役時代に経験したケガによる世界選手権棄権という苦渋の決断や、2007年の半月板手術、そして驚異的な回復を見せたリハビリの舞台裏を語ります。対談相手には、スポーツ整形外科の専門家である慶應義塾大学の松村昇先生を迎え、トップアスリートの「身体の声を聞く」感覚を医学的見地から深掘りします。痛みを抱えながらも挑戦を続ける全ての方へ、早期治療の重要性と再起へのヒントを提示する特別対談です。
現役時代に襲った膝の痛みの正体

高橋さん:今日はよろしくお願いします。
松村医師:よろしくお願いします。高橋さんにお会いできて光栄です。高橋さんは現役時代から現在に至るまで、常に全力で駆け抜けていらっしゃるイメージそのままで、本当に健康的ですね。
私は現在、慶應義塾大学病院で整形外科医を務めておりますが、実は私自身も学生時代にスポーツに打ち込み、そこでケガを経験したことがこの道を志すきっかけとなりました。スポーツ整形外科の世界は、単に傷を治すだけでなく「いかに早期に元のパフォーマンス、あるいはそれ以上の状態に戻すか」という難しさがあります。
高橋さん:先生ご自身もスポーツをされていたのですね。私たちアスリートにとって先生のような専門家は、まさに「身体の守り神」のような存在です。ケガをしたときはもちろんですが、日々のケアや予防、そして何より「何かあってもこの先生がいれば大丈夫」という安心感があるからこそ、限界まで自分を追い込むことができます。私の経験が、膝の痛みに悩む多くの方のヒントになれば嬉しいです。
松村医師:現役時代、印象に残っているケガはありますか?
高橋さん:1999年セビリア世界陸上を目指して練習していたとき、お尻の付け根あたり、梨状筋(りじょうきん)に痛みを感じたのがケガの始まりでした。当時は、私の現役生活の中でもっと練習が積めていた時期。どの練習コースを走っても自己ベストが出るような「上り調子」の状態で身体も非常に強く、ケガ知らずだったんです。
松村医師:そうだったのですね。
高橋さん:はい。大腿骨頭が外れるような感覚と付け根辺りに痛みがあり、さらに膝下は感覚がない状態でした。自分の中では複雑な感覚でした。最近では「ぬけぬけ病」とも呼ばれますが、脚を前に出そうとしても自分の意識通りに動かず、ぶらっと勢いだけで前に出てしまう。その結果、本来は当たることのない「左右の膝がぶつかる」ような違和感から始まったんです。
直前に体調を崩して体重が3キロ減り、筋力も落ちていて。その弱った状態で、無理やり脚を前に押し出そうとしたことで、付け根の靭帯に過度な負担がかかり、激痛に変わりました。
松村医師:まさに「オーバーユース(使いすぎ)」と「身体のバランスの崩れ」が重なったのですね。当時はどのような対処をされたのですか?
高橋さん:大会の2~3週間前というもっとも追い込む時期でした。ステロイド注射を3本打ち、痛みをごまかしながらすべての練習メニューをこなしていたんです。しかし、当日の朝になっても痛みは引かず、監督から「ここで無理をして一生走れなくなるよりも、次を見据えてやめよう」と言われました。目の前が真っ暗になるような苦しい決断でしたが、今振り返れば、あれが選手生命を守る分岐点だったんじゃないかと感じますね。
それまでの私は「練習はやりっぱなし」で、ストレッチやケアを軽視していたように思います。この痛みを通じて、初めて「予防」という言葉の重みを学んだのです。
松村医師:大会直前で休むのは英断でした。痛みの閾値(いきち)は人それぞれで、同じ練習量でも大丈夫な人もいればケガをしてしまう人もいます 。高橋さんのように、痛みを我慢せずに休む勇気を持つことが、結果的にその後の選手生命を守ったと言えますね。
高橋さん:そう言っていただけると救われます。実は、私はどちらかというと痛みに耐えてしまう方で、骨折をしていても「走れるなら走っちゃえ」と我慢して走ってしまうタイプだったんです 。後から「ここ、骨折していたよ」と指摘されることもありました。
松村医師:中高生の頃などは回復力が高いので、痛いながら続けてもそのうち治ってしまうことがありますが、それが慢性化するとパフォーマンスを崩す原因になります。
高橋さん:本当におっしゃる通りです。若いうちは勢いでできてしまっても、やはり自分の状態を素直に認めて、痛みを我慢せずにすぐ休む。これが競技を続けるうえで、絶対的に大切なことなんだと経験を通して学びました。
松村医師:練習を外したくない、周囲に差をつけられたくないという思いから、アスリートは無理をしがちです。しかし、痛みという「身体のサイン」に対して潔く休む決断をすることは、非常に重要なスキルの一つですね。
高橋さん:そうですね。ちょっとした痛みでも敏感に反応して休んでしまうと練習が積めないという悩みもありますが、自分での判断が難しいからこそ、病院の先生に客観的に判断してもらうことが大きな目安になると思います。
また、選手の特性を理解しているコーチや監督に相談することも大切です。ただ、一般のランナーの方は頻繁に病院へ行くのが難しい場合もあると思うので、まずは「早めに少し休んで長引かせない」という意識を持つことが非常に大きいと感じます。
膝の痛みは「結果」であり「原因」ではない?

松村医師:年齢を重ねると、痛みが出た時に早めに状況に応じた練習に切り替えたり、痛む部位を使わずにできる練習を探したりといった工夫も必要になりますね。休んでばかりでは上達しませんが、慢性化させないコントロールが重要です。
高橋さん:腸脛靭帯炎で膝や腰に痛みが出た際、最初は膝が悪いと思い込んで膝ばかりアイシングしていました。しかし原因は膝ではなく、ももの外側の筋肉が硬くなって収縮しなくなることで、その負担が膝や腰の付け根に現れて痛みが出ていたことが分かったんです。
松村医師:おっしゃる通りで、痛む場所が必ずしも「原因」ではないんです。膝の痛みは「結果」としてサインが出ているだけで、原因が別の場所にあることが非常に多い傾向にあります。1か所を痛めてそこをかばうことで、近くの部位や反対側に痛みが出るのはよくあるパターンですね。
高橋さん:原因が分かってからは、ほぐす場所やケアの仕方がまったく変わりました。原因を正しく知ることで、初めてピンポイントの対処ができるようになるんですよね。
松村医師:そうなんです。関節に痛みを感じやすいのは確かですが、痛みはあくまで「何らかの負担がかかっているサイン」に過ぎません。全体的なオーバーユースなのか、フォームの崩れなのか、トータルで原因を見極める必要があります。
高橋さん:原因が分からないまま同じ走り方を続けていたら、また同じ痛みが来てしまいますよね?
松村医師:はい。だからこそ自己判断ではなく、病院で「何から来た痛みなのか」という根本となる原因を探ってもらうことが、予防と対処において非常に重要です。
先生とトレーナー、ダブルの支えで乗り越えた手術
松村医師:2007年には右膝関節の半月板手術という大きな決断を下されました。10年近く抱えていた持病が悪化したということですが。
高橋さん:もともと私の右膝は、半月板に少し傷があり、違和感や軽い痛みとはずっと付き合ってきました。しかし、2007年の夏、ある拍子にその傷付いてめくれていた部分が関節の反対側まで80%もめくれ上がってしまったんです。そうなると、もう物理的に関節に挟まってしまい、ジョギングを始めて5分で激痛が走り、一歩も前に進めなくなりました。
松村医師:半月板は膝のクッションですから、それが80%も損なわれるというのは非常に深刻な状態ですね。北京五輪の選考レースを控えた時期に、手術への迷いはありませんでしたか?
高橋さん:ものすごく悩みましたね。以前に恩師である小出監督が体にメスを入れるのは負担が大きいとおしゃっていたのを思い出し、自然に元の位置に戻る可能性もゼロではないと言われ、1ヶ月は様子を見ましたが、状況は変わりませんでした。
ただ北京オリンピックを見据えて逆算したとき、翌年3月の最終選考に間に合わせるためには、8月までに手術を受けなければいけない。私は「うだうだ悩んで時間をムダにするより、手術をしてリハビリに賭けよう」と決めました。内視鏡手術という、比較的傷の小さい方法を選びましたが、それでも選手にとっては命がけの決断でした。
松村医師:その決断の裏には、信頼できる医療チームとの出会いがあったのでしょうか。
高橋さん:はい。私はアメリカでの手術を選びました。理由は「日本とアメリカのリハビリ体制の違い」です。当時の日本では手術後は安静にして治りを待ってトレーニングを再開させるものでした。対してアメリカは、先生とトレーナーが完全に連携し、術後のケアを24時間体制でバックアップしてくれる環境がありました。手術の次の日からハードなリハビリを開始し、回復と同時にトレーニングして筋力を落とさない取り組みです。この「先生・患者・トレーナー」というトライアングルの信頼関係があったからこそ、迷いなくメスを入れることができたんです。
リハビリと代替トレーニングで身体を作り直す

松村医師:驚くべきは、その後の回復スピードです。術後、どのようなリハビリを行われたのですか?
高橋さん:アメリカのリハビリは、「鬼」そのものでした(笑)。手術が終わってわずか1時間後には松葉杖を渡されて「さあ、帰っていいよ」と言われ、次の日からはもう膝を曲げ伸ばしするトレーニングが始まったんです。これがとてもハードでした。
当時の日本では考えられないようなスパルタでしたが、理学療法士の先生からは「1ヶ月半じっとしていれば骨や傷は治るけれど、その間に落ちた筋力を戻すにはその倍以上の時間がかかる。筋力を落とさずに治す方が、結果的に最短で復帰できる」と言われ、納得しました。
松村医師:医学的にも、現在は「早期リハビリ」が主流になっています。過度な安静は、筋力の低下だけでなく、関節を固めてしまうリスクもありますからね。
高橋さん:そのおかげで、手術からわずか2週間後には40分間のジョギングができるようになり、先生からも「2,000人以上手術してきたが、君が最速だ」と驚かれました。この経験で学んだのは、ケガを「不幸な中断」と捉えるのではなく「身体を作り直すチャンス」と捉えるメンタリティです。
例えば、膝が使えない時期は、プールでビート板を挟んで腕だけで泳いで心肺機能を維持したり、自転車を漕いで体重をかけずに脚力を維持したりして、つねに「今できる最善は何か」を考えるようになりました。
松村医師:一般のランナーの方々にも、その「代替トレーニング」の考え方は非常に役立ちます。走り続けることだけに固執せず、水中ウォーキングや自転車など体重のかからない運動を組み合わせながら、治るまでの時間を賢く使うのが健康的に競技を続ける秘訣と言えます。膝が痛いからといってすべての運動を止めるのではなく、負担の少ない方法を探ることが、メンタルの安定にもつながりますね。
半月板は長年の蓄積によって消耗していく
高橋さん:半月板損傷は、もともと剥がれていた部分が何かの拍子に大きくめくれてしまったのが直接のきっかけでした。前日に何か激しい衝撃があったわけではなく、普段通りの生活の中でのズレが原因だったように感じます。半月板を痛めてしまう一番の要因は何なのでしょうか。
松村医師:一番は、やはり「これまでの蓄積」ですね 。高橋さんの場合、トップアスリートとして普通の方よりも遥かにハードに膝を使い続けてこられました。その結果、半月板が少しずつ消耗していたのだと考えられます。
高橋さん:「使いすぎ(オーバーユース)」が根本にあるということですね。
松村医師:はい。何かのきっかけで急に痛むこともありますが、それはあくまで「最後の一押し」に過ぎないことが一般的です。もともと切れやすい体質の方や、生まれつきの形の影響で負担がかかりやすい方もいらっしゃいますが、基本的には長年の蓄積によって半月板が「消耗品」のように傷んでいく側面があります。
高橋さん:半月板のように目に見えない場所の損傷を、私たちはどうやって防げばいいのでしょうか。
松村医師:半月板は、筋肉や骨に比べて血流が乏しい場所なので、一度傷むと非常に治りにくいのが特徴です。ですから、一番の予防は「膝をひねるような、ケガをしやすい無理な動きを避けること」に尽きます 。しかし、高橋さんのように限界まで活動されてきた方の場合は、ある程度の消耗は避けられなかった部分もあるかもしれません。
再生医療は手術と保存療法に次ぐ第3の道

高橋さん:ところで先生、最近のスポーツ界でよく耳にする「再生医療」についても伺いたいのですが、私たちの現役時代にはなかったこの選択肢は、今どのように進化しているのでしょうか?
松村医師:再生医療は、今まさに整形外科分野でもっとも注目されているトピックの一つです。簡単に言うと、自分自身の血液から抽出した成分(PRPなど)や幹細胞を患部に注入し、身体が本来持っている「治す力」を最大限に引き出す治療法です。高橋さんの現役時代にはまだ一般的ではありませんでしたが、現在は多くのトップアスリートが導入しています。
高橋さん:それは、手術をしなくても半月板などが「再生」するということですか?
松村医師:そこは正確に伝える必要がありますね。現状では、完全に失われた半月板が魔法のように元通りになるわけではありません。しかし、組織の修復を早めたり、炎症を劇的に抑えたりする効果が期待できます。
例えば、通常完治に2ヶ月かかるケガが1ヶ月で済む、といった「時間の短縮」はアスリートにとって何物にも代えがたいメリットです。また、自分の細胞を使うため副作用のリスクが極めて低く、注射だけで済むため日常生活への影響も最小限に抑えられます。
高橋さん:注射だけで済むなら、仕事や練習を休めない社会人ランナーの方にとっても大きな希望になりますね。実は私の周りでも、再生医療を受けて「今まで治らなかった痛みが消えた」という選手が何人もいます。
松村医師:そうですね。特に、初期の変形性膝関節症や慢性的な靭帯の痛みには非常に有効なケースが多く見られます。ただ、現在は自由診療がメインで費用面でのハードルがあることや、効果に個人差があることも事実です。
しかし、2026年からは変形性膝関節症に対する一部の再生医療が保険適用の議論に挙がるなど、より多くの人が受けやすい環境が整いつつあります。手術か保存療法か、という二択の間に「再生医療」という第3の道ができたことは、医学界にとって大きな進歩です。
身体の声を聞いて、痛みと向き合うことが大事
高橋さん:今日先生とお話しして改めて感じたのは「自分の身体の声を聞く」ことの大切さです。痛みは、身体が発している「これ以上は危険だよ」という大切なサイン。それを無視して痛み止めでごまかすのではなく、まずはそのサインを素直に認めてあげることなんですね。実際、マラソン大会で安易に鎮痛剤を飲む方が本当に多くいらっしゃいます。そうしたランナーの方も、自分一人で悩まずに、松村先生のような専門家に相談してほしいと思います。
松村医師:ありがとうございます。高橋さんのような世界で活躍されたアスリートでも、ケガに悩み、葛藤し、そこから学んでこられた。その言葉には、とても重みがあります。
「膝の痛みは付き合っていくもの」と諦める必要はありません。最新の治療法や、正しいリハビリ、そして何より予防のための知識を持つことで、膝の健康は守れます。痛みのない生活は、人生をより豊かに、楽しくしてくれます。私たちはそのお手伝いを全力でさせていただきます。
高橋さん:膝が良くなれば、また新しい景色を見に走り出すことができますね。皆さんがいつまでも自分の足で、元気に楽しく歩き続けられることを心から願っています。今日は本当にありがとうございました!

アスリートと医師のスペシャル対談 The Authority Match

元マラソン選手
高橋尚子 さん

慶應義塾大学整形外科 専任講師
松村 昇 先生
